高賀山
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洞戸と板取・郡上市八幡町境にそびえ、標高1224.2mの高さがある。
「濃陽志略」に 「高賀嶽、此山最秀抜、与二板取白谷嶽一相対、遠望之形如二節筈一、近国階名曰二節筈山一是也」と記され、南東に瓢ヶ岳(1162.6m)、南に今淵ヶ岳(1048.4m)がそびえる。これら三山の東側を長良川が南流し、北をその支流那比川、西側から南側へと長良川の支流の板取川が流れる。この三川に囲まれた一画は古くから山岳霊場として開かれており、高賀山はその主峰であった。山岳霊場として成立する開闢伝承は、星宮神社縁起(経聞坊蔵)・高賀宮記録(高賀神社蔵)などによれば、霊亀年間(715−717)福部岳(瓢ヶ岳)に容姿・啼声が牛に似た妖魔が住み村人に危害を加えたため、養老元年(717)勅命を受けた藤原高光なる者が、高賀山の麓に国常立尊・国狭槌尊等の諸神を祀り、その加護を受けて妖魔を退治した。しかしその後も妖魔の亡霊が出現したので、虚空蔵菩薩を祀り、その加護で退治に成功したため、高光は退魔随縁の6ヵ所に神社を建立したという。この六社は現在、高賀神社、郡上市八幡町の本宮神社、新宮神社、同美並の星宮神社、美濃市瀧神社、金峰神社とされる。なお、古くは瀧神社でなく那比二間手(現八幡町)にあった大日堂宇婆御前之社であったが、南北朝時代に瀧神社が台頭したと考えられる。
蓮華峯寺(現高賀神社に収蔵されている)に蔵されていた天治元年(1124)銘のある菩薩像(十一面観音と推定)や同時代の作とされる大日如来像、新宮神社に蔵されている十一面観音像・地蔵菩薩像などは一木造りの素朴な彫刻で、山岳宗教者の手によるものとされる。また、星宮神社の少し上流に旧社地があり、現在は同社に遷祀されている雄角明神は美濃国神名帳にみえる郡上郡7座のうちの「正六位上雄角神」に比定され、雄角は役小角と解されている。これらのことから平安末期には高賀山は山岳宗教者の集まる霊場として成立していたと推定される。
高賀神社、新宮神社、星宮神社などに残る懸仏の造顕年代や御正体については、鎌倉後期から南北朝時代に虚空蔵菩薩が圧倒的に多くなり、従来の各社独自の信仰を保持していたものから虚空蔵菩薩が高賀山信仰の主流となったことがわかる。この信仰の変化については、白山中居神社(現郡上郡白鳥町)の本地仏が虚空蔵菩薩であり、この信仰をもった白山修験の影響、また伊勢金剛證寺(現三重県伊勢市)の虚空蔵信仰とのかかわりが考えられる。
中世末期、長良川流域に浄土真宗が、板取川流域には禅宗が教線を拡大し、高賀山信仰はそれらの影響を受けて衰退したが、近世になって全6社を巡る信仰が成立し、庶民の信仰を受けるようになった。「濃陽志略」に「岩窟不動、在二山半腹一岩窟如O門、其中安二置不動銅像一、詣者擁O之出O窟礼拝、畢又擁O之置二窟中一、峰権現祠、在二山絶項一、謂二之児宮一」とあり、山岳霊場としての山内の様子の一部が知られる。山頂には天保12年(1841)銘の石碑があり、「虚空蔵菩薩」と刻まれている。円空も高賀山麓で多くの修行をし、高賀神社・星宮神社などにその遺墨や遺像をとどめ、高賀山霊場の一つであったと思われる現美濃市北部の板山の岩屋観音洞に籠り、作仏をしている。
高賀街道は、長良川を利用した舟運の湊のあった上有知村(現美濃市)で郡上街道より分岐し、ほぼ板取川に沿ってさかのぼり、阿部村から板取川支流の高賀川に沿って高賀山中に入り、高賀神社を経て高賀山頂および瓢ヶ岳に至る。正保国絵図には上有知村から長良川左岸をさかのぼって曾代村(以下は現美濃市)を通り、板取川と合流する上手で長良川対岸の立花村に渡り、長瀬村・片知村・蕨生村・上野村の板取川左岸諸村を経て、乙狩村に至る道が描かれている。これとは別に、同絵図には武儀川左岸の中洞村(現山県郡美山町)から洞戸を通り、板取川沿いに板取に至る道が描かれている。これらの道は板取川上流諸村の物産を運び出す道として利用されたが、上有知湊の発展に伴って両道が街道として結ばれ、さらに高賀山六社巡りの高賀山参詣道として利用されたものと思われる。
洞戸より板取川の支流高賀川に沿って高賀山に至る道は、高賀村の交易路であると同時に行者道として開かれたものであろう。高賀神社より山中に入ると、小石を乗せると体が丈夫になり無事に登山できるという「力石」があり、行者が身を清めたとされる垢離取場と称する小さな滝を経て、明治初年まで不動明王が祀られていた窟(岩屋)に達し、八百比丘尼の伝承も残る。さらに登ると道は二手に分かれ、一方は高賀山頂へ、他方は峰稚児神社を経て瓢ヶ岳に至る。高賀街道に沿った現美濃市域の安毛・蕨生や現洞戸地区の小坂・大野・市場・通元寺などには馬頭観音石像や道祖神が祀られ、山間の街道を通る人々の安全への祈りが知られる。