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洞戸の伝説

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 | 投稿日時 2006-2-9 15:39
DIS  新人   投稿数: 3
洞戸の『大松の河童』という伝説について調べています。
柳島街道で出没し、たくさんの人を襲ったということは聞いたことがあります。
何人のひとを襲ったのか、またどうして出没しなくなったのかなど、詳しいことを知りたいです。
大松の河童について詳しいことを知っている人は是非教えて下さい。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 | 投稿日時 2006-2-9 18:21
mms-t  住人   投稿数: 465
引用:
何人のひとを襲ったのか、またどうして出没しなくなったのかなど、詳しいことを知りたいです。
 初めまして、DISさん  「大松の河童伝説」については、あんまり詳しい資料は残ってないのですが、「洞戸村史」には若干、そのことについて触れてあります。

 『村史によると河童による犠牲者は88人にものぼったそうです。
それを何とかくい止めるために、旅の坊さんに頼んで、石仏を88体彫ってもらい、淵の上の街道にお祀りしてお経を上げてもらったそうです。それから、河童が出没しなくなったとの事です。』

 今も柳島街道には、その時の石仏が沢山残ってますよ。
ほとんどが、「馬頭観音」と言って、交通、往来の安全を祈願して立てられた石仏なんですけど。

 

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通常 Re: 洞戸の伝説

msg# 1.1.1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 | 投稿日時 2006-2-9 22:20
montas  管理人   投稿数: 1277
乱入にて失礼します。
まさか本当に河童がいたと思ってないでしょうね (^^!

その昔、柳島街道は河童が出ると噂になるほど旅人が行き来していたのです。その旅人を狙う強盗の類を河童の仕業と恐れたのでしょう。
板取川に架かる橋がまったくなかったらと想像してみて下さい。
深い川を避けて山沿いの道をやって来るしかない時代、柳島街道は交通の要だったのです。

特に洞戸は商業も活発で東西の文化の交流点だった様です。各所にある仏像がそのことを物語っているそうですよ。この辺りのお話はよろしくお願いします > mms-tさん

そうそう「大松の・・」の由来、今はない大松の画像はこれです↓
http://www.horado.com/modules/myalbum0/photo.php?lid=23
淵は今もあります。IDSさんも泳いだことがあるのかな? しかし当時は板取側の水量は現在よりずっと多く、細く暗い道を通行する旅人にとっては、いかにも河童に引き込まれそうな、ふかーい淵であったんでしょうね。
投票数:13 平均点:0.77

通常 Re: 洞戸の伝説

msg# 1.1.1.1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006-2-10 17:33
mms-t  住人   投稿数: 465
「河童伝説」はあくまでも伝説なので・・・
montasさんが言うように、昔、洞戸はあらゆる物資の集積場所で、洞戸、板取、乾、柿野、牧谷を経済圏とした一大市場だったのです。その物資の往来経路の一つが「河童伝説」がある柳島街道(やなじまかいどう)なのです。その他には、上菅谷の九頭師(崩)坂経由の岐阜街道、牧谷経由の上有地街道があり、板取からの物資のほとんどは、板取川を使った「筏」で物を運んだのですよ。

物資を荷車や筏で運んだ時代、明治の頃までは洞戸の街筋は随分にぎわいを見せていたと思います。

『河童』が出るという噂が出るくらい、大松の街道筋には賊や、追い剥ぎ等が出没して、往来の馬車引きを恐れさせたのでしょう。「大松の河童伝説」は、洞戸が大いに栄えた時代の証しともいえる逸話なのです。
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