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feed 宝物殿 【仏像編その2】 (2007-12-9 19:38:26)

懸け仏

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懸け仏とは、仏像や神像を円盤状にあらわし、神社・仏閣の内陣に懸けたものです。
神殿に安置した鏡に神霊が宿るというのは古来からの考えのようで、神仏習合・本地垂迹説が広まってからは、一心に祈れば神は鏡面に姿を現すと信じられるようになり、その姿を永く残そうとして、鏡面に本地仏を毛彫りしたのが、懸け仏の始まりのようです。懸け仏は、神と仏が一体となった形「神仏混合」そのものを表したものなのです。
懸け仏が寺院より神社に多いこと、懸仏という言い方は近世のもので古くは御正体(みしょうたい)とよばれていたこと、本地垂迹説などからもそのように説明できます。


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 高賀神社の宝物殿にある「懸け仏」は、鎌倉時代から室町時代にかけてのもので、虚空蔵菩薩信仰の全盛期の時期とほぼ一致していて、一番多い御正体は虚空像菩薩です。

 年代の解る一番古いものは、嘉禎三年(1237)のものがあり、仏像部分は損失してしまっているのですが、板の裏側には、「聖人 浄尊」が虚空蔵菩薩懸け仏を奉納した旨の墨書銘があります。

 大きさは、小さいもので直径6センチほど、大きいものでは、直径40センチぐらいあります。
年代が下るほど小さくなっている傾向があるようです。

 これらの「懸け仏」は美濃の国はもとより、近隣諸国からの参拝者から奉納されたもので、現存している「懸け仏」の数は二百七十余面(洞戸村史より)にのぼります。しかし、保存状態が悪く、ほとんどのものは鏡板と仏像が離されており、明治初年から激しくなった「廃仏毀釈」運動の爪あとを確認することができます。


明治の「神仏分離令」が無ければ、高賀の仏たちはもっと沢山、そして完全な形で残っていたのでしょうが、本当に惜しい事です。


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