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feed 芭蕉の句碑 (2008-3-10 19:15:39)

「山里は 万歳遅し 梅の花」






''' 「山里は 万歳遅し 梅の花」 '''

元禄四(1691)年 松尾芭蕉 四十八歳の作。(伊賀の里で詠む。)


句 意

都ならば正月早々とっくに廻ってくる万歳も、山里では実に遅く今ごろやって来ている。
ちょうど今梅の花が咲き誇っている。

山里ののんびりした趣を詠った句です。

この芭蕉の句碑は、以前「ドイ山の石仏群」で紹介した( http://blogs.yahoo.co.jp/go003322/9212567.html) 、通称ドイ山(関市洞戸市場)にあります。

なぜ、''' 伊賀上野で芭蕉が詠んだ句の石碑 '''が、ここ洞戸の中心地にあるのかは定かではありません。

洞戸は、江戸の文化文政の時代より俳諧が盛んな地で、''' 「万歳社」 '''を結成して、芭蕉の俳諧の流れを汲む''' 美濃派 '''に属し、多くの俳句を嗜む俳人が居ました。 
明治30年の「万歳社」の会員名簿には30名を超える名が残されています。

俳壇の名を「万歳社」としていることから、芭蕉の句「山里は ''' 万歳 '''遅し 梅の花」から命名したのであろうと想像します。俳壇結成の標しとして、洞戸中央部のドイ山に、芭蕉の句碑を建立したと思われます。


 

「万歳社」


''' 「万歳社」 '''の中で特に活躍した俳人に''' 長屋其馨 '''(天保14年?大正7年)を挙げることができます。
其馨は、俳諧集「反古龍」、「紅楳園句集」などを編纂。
''' 美濃派 '''の伝道を精力的に行っていて、北陸、山陰、九州にまで俳句の旅に出ており、門人が''' 千人 '''を超えていたとも言われています。


この「万歳社」の活動拠点の一つに''' 円通庵(尼寺) '''(関市洞戸通元寺)があります。今は無住で荒れ放題の状態、何かとても惜しい気がしてなりません。 
円通庵の裏手の墓地には、歴代尼僧の墓所があり、その''' 墓石には俳句 '''が刻まれています。・・・俳句を刻んだ墓石、あまり聞いたことないと思うのですが。・・


この「万歳社」は戦後の昭和まで続き、昭和59年 第十世 和女(林氏)の逝去により、後を継ぐ者がなく150年続いた美濃派俳諧の一拠点が消えたことになります。


一つの石碑を見て、「なぜこれがここにあるの?」・・の疑問からいろいろ調べてみたのですが、現代の過疎化が進んで元気のない地方と違って、当時は、山間地でも文化の発信地であろうとする、元気な先人たちの活動を垣間見た気分です。


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