ほらど未来まちづくり委員会

洞戸地域が住みやすく活力ある地域として永続的に発展するための事業を展開しています。

昔の洞戸の写真展

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事業概要: 古い写真で昔の洞戸をしろう。
洞戸ふれあいセンターのロビーで展示しています。
実施期間: 平成29年12月下旬〜平成30年1月下旬
担当部会: 事務局

昔の写真の目次

古い写真で昭和初期の洞戸の生活、産業、交通を知ろう。

洞戸ふれあいセンターにて展示しています。(平成29年12月~平成30年1月)

~運送、乗り合いバス、消防車~

1.貨物トラック

 洞戸地域で最初に自動車で貨物輸送を始めたのは昭和4年のことでした。この写真の車種は、シボレーの2.5トン積みで、荷台から飛び出して乗せている荷物は、板取方面から搬出されたで炭俵です。

当時の米国産シボレー、2.5トン積みのトラックの値段が2,700円であったというから現在の価格にしたら、5,000万円にもなります。この価格は、かなり立派な家が2,000円位で出来た時代でした。

 昭和14,15年には、洞戸地域にはトラック台数も10台に増え、馬車との競合時代に入ったが、馬車輸送は衰退していきました。

 

2.木材の搬出

木材の搬出は、昭和12年頃までは、板取川を使用した「(いかだ)流し」が主流であった。また、川の無い場所では、枕木を敷いた道路を造っておいて、その上を木ぞり材木を乗せて運ぶ「木馬(きんま)」という方法で運んでいました。

 この写真は、洞戸地域では人工林が最も多い、冬季の栗原底津地内より木材を搬出している状況です。

 

3.乗り合いバス

 洞戸地域に初めて、バスが開通したのは、大正12年のことでした。区間は、美濃町~洞戸で定員6人乗りのT型フォードで、1日4往復であった。昭和8年には、洞戸~高富間が開通した。昭和18年には、当時の政府の方針によってバス会社が統合され、岐阜乗合(株)が設立された。

 戦時下には、燃料不足によって、運休停止等大きな痛手を負ったが、戦後は、新岐阜~洞戸間や洞戸~杉原間へと順次区間延長された。

 この写真は、岐阜乗合(株)以前に経営されていた美濃自動車が運行していた、洞戸~高富間を往来したバスです。

 

4.消防ポンプ自動車(洞戸村消防団)

洞戸地域の消防団の歴史は、明治40年に市場自治会に「(じゃ)の目消防組」と称して、私設の消防組が設置され、明治45年に通元寺自治会には、「丸ほ消防組」が設置されました。

 大正7年には、公設消防として「洞戸村消防組」となり、昭和14年に、「警防団(けいぼうだん)」と改称されました。そして、戦後昭和22年に自治体消防として、「洞戸村消防団」誕生し、平成17年には、関市との合併によって、現在の「関市消防団」となりました。

 この写真は、昭和35年に旧洞戸村が購入した、最新型の消防ポンプ自動車で洞戸の防火防災に威力を発揮しました。

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~人々、生活~

5.昭和初期の着物姿の子供

この写真は、昭和初期以前の子どもの写真です。当時の子どもは、着物姿がほとんどでした。現在の服装は、明治維新以降、西洋から日本に入り、まず、男性の大人から普及していきました。

子どもの着物姿が多い理由として、日本人には、ズボンや上着を作る技術が乏しかったことと、日本から海外へ輸出していた絹糸は、ズボンには適さなかったこと等が考えられます。

 

6.いろりの生活

電気、ガスそして、灯油を使わない家庭には、暖炉を取るために、「いろり」や「ばんどこ」あり、ここでは、家族全員で食事をしたり談話したりし、一日の休息をとる場所でもありました。

 この写真の男性は、一人いろりで料理を作ったり、お茶を沸かしたりして、生活をされていました。

 このような光景は、今ではほとんど見ることはできなくなってしまいました

 

7.仁輪加

 洞戸地域の春祭りには、市場・通元寺の若い衆(20歳前後)が、山車の上で芝居を演じて、道路を引き回す素人演芸、いわゆる仁輪加が行われた。

 最も盛大に行われたのは、御大典を祝ったころであった。全国には、あちこちに仁輪加が伝承されており、隣の美濃市のものは全部即興劇で、一度演じたものは二度とやらないという仁輪加の典型的なスタイルである。

 この写真で演じて見える二人は、市場の男性。

 

8.新聞少年、新聞少女

 昭和1277日「日中戦争」が発生し、昭和16128日「太平洋戦争」に突入する中で、新聞は、戦争の状況や誰がどんな手柄を立てたとか等々、戦争にまつわる記事で埋め尽くされていました。購読率は、50%に達していなかったようです。

 昭和30年初めに洞戸にテレビが入り、500台を超える普及となり、新聞の購読者が減少すると言われましたが、テレビ番組表の掲載によって、増加することになりました。

 この写真は、通元寺の長屋新聞店前に集まった「新聞少年」「新聞少女」の始まりです。

 

9.板取川の「びよびよ橋」

 この写真は、現在の「通元寺向橋」ができる前の通称名「びよびよ橋」です。一枚の幅50センチメートル余りの板の上を行列となって歩く人たちは、家族の一人を亡くしたその家族と近親者と思われます。

 寒い北風が、板取川の上流から吹きつけ、凍てつく板の上で足を滑らかせば、10メートル下の真っ白い雪に埋もれた河原に落下することになります。

この風景は、洞戸地域で最長の吊り橋で最も危険な橋でした。

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~洞戸の女性達~

10.戦時下の女子青年グループ

この写真は、昭和17年当時の女子青年のグループが、現在の板取川中学校校庭で撮影されたものです。当時は、戦時下で、彼女たち一人ひとりは、決して笑顔のある顔ではありません。また、カメラに向かってポーズを撮る女性は一人で、他の女性は一人ひとりの顔の方向が違います。

 悲劇を生む戦争の中で生きた女性たちの寂しげな顔は、何を伝えようとしていたのか、今の時代こそ考えることが大切かもしれません

 

11.戦後に活躍される洞戸の女性達

日本は、世界的に見ても女性の社会進出が遅れているため、経済的には先進国であっても、社会的には後進国といわれていますが、我が洞戸地域では、旧洞戸村時代に、多くの女性が活躍されていました。この写真でタスキをされている女性「後藤歌子」は、旧美山町出身で、洞戸へ嫁ぐ前にお花、お茶、和裁、そして礼儀作法等を修得されていました。戦後の新しい時代に入ると洞戸の初代婦人会長や旧武儀郡副会長になられ、また、公選であった教育委員にも立候補し、2位で当選されました。

修得した生け花教室では、常時30人余の生徒が習い、教えの基本は「花は足で活けろ」、まず山へ行って花を探すことから稽古がはじまった。多大な功績で、家元から最高功労賞を受られました。

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~工場 松田木管(株)~

12.松田木管(株)

 松田産業は、戦時下の昭和18年に開業し、軍需(ぐんじゅ)工場用の「木ハンマー」から始まり、戦後の昭和22年には、紡績の糸を巻く木管を作り始め、昭和28年「松田木管(株)」として、法人組織となった。そのころから、輸出用にソファの足、塩、胡椒(こしょう)入れ、サラダボール等を作った。昭和39年頃には、テレビ等の足を作り、昭和40年代からは、自社で食卓椅子、テーブル、二段ベッドを作り、平成5年には売り上げ42億円であった。

 この写真2枚は、木管を丸くする作業と塩・胡椒などを入れる初期の製品です。

 

松田木管(株)の初期の製品

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